御手洗銀三のトイレコロジー
No.32 名職人に追悼

 十数年前の某月深夜。ある高速道路のサービスエリア(SA)のトイレで数名の作業員が忙しく動き回っていた。当時のSAのトイレといえば「臭い・汚い・恐い・暗い」の4Kトイレの見本のような環境で、当然、トラブルは日常茶飯事だった。このSAも詰まりと汚れで利用が困難となり、弊社にSOSが入ったわけだ。

 現場はアンモニア臭が充満し、二十器ほど並んだ小便器からは汚水が溢れ出ていた。この日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。しかし、それは現場の悲惨さからではない。

 スタッフの中にひと際幼い少年が混じっていた。彼は中学を卒業した直後に、我がグループ会社にアルバイトで採用された菊地大介君という。ピアスを開け、まだ学生の延長のような雰囲気が漂っていた彼を見て、私は肩を叩き「頑張りなさい」と声をかけた。足手まといになると咄嗟に危惧したからだ。

 しかし、作業が始まると、その懸念はたちどころに消えた。最初こそ先輩の指示で動いていた少年が、次第に腰の据わった作業を進める姿に、私はもちろん、先輩社員達も目を見張った。

 最も感銘を受けたのは、仕事を終えて撤収する直前だった。皆が仕事を終え、缶コーヒーを片手に煙草をくゆらせて一息入れている頃、彼は未明の薄明かりの下で、誰に指示されることなく、黙々と高圧洗浄車を磨いていた。

 学歴偏重社会にあって、久しぶりに身体を張った仕事師≠フ意気込みを感じて私は心から嬉しかった。

 彼はどちらかというと口数の少ない寡黙な少年だったが、その後も仕事に対する姿勢は弛むことなく、立派な職人へと成長した。今では課長として大勢の部下に慕われ、「トイレ診断士」としてもその将来を嘱望される三十二歳だった。
「だった」と過去形で記したのは、平成十七年十二月三十日、この日が菊地君の命日となったからである。


 彼は短い生涯の中で、周囲の人々に沢山の財産を残してくれた。少年に対する大人たちの偏見を覆した。寡黙な「仕事師の背中」は、幾千の言葉よりも部下を束ねる力があることを教えてくれた。そして、愛する妻と二人の子供達。親よりも先に逝く親不孝を凌ぐ、多くの功績と深い感謝の気持ちで、わが社の社史にその名を刻むことにした。 名職人、菊地大介君、安らかに眠りたまえ。

『FRANJA』(フランジャ)31号掲載 2006年3月15日発行

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