銀三からの手紙
銀三からの手紙 〜トイレビジネス50年の歩み〜
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トイレビジネスの原点 日本経営センター時代:前編


それまでの経験もありましたが、私が営業という職業の礎を築いたのは、東陽商会を創業する前に勤めていた株式会社日本経営センターにいた頃のことです。トイレビジネスに力を注ぐようになったきっかけもこの時でした。時代は1970年代前半、私は30歳手前。沖縄返還で日本中が沸いていた、そんな頃だったと記憶しています。

当時、日本経営センターには5人の講師が在籍していました。中心にいたのは、社長であり社主でもある吉岡宏治社長。優秀な講師陣が揃い、原先生、伊藤先生、佐々木先生、高橋先生といった面々が、国内の大手家電メーカーから外部講師として引っ張りだこでした。

その時代の家電店はまだ量販店が少なく、メーカー同士が占有率を競い合っていた時代です。カラーテレビがようやく普及し始めた頃で、電子レンジに至っては普及率5%にも届かない。だからこそ、メーカーの販売会社は小売店の販売意欲を高めるため、日本経営センターの実践的な指導を求めていたのです。

日本経営センターの指導や販売促進は実践的で評判が良く、初心者の私にも講師として派遣の命が来るようになりました。吉岡社長の特訓を受け、前日まで何度も練習して講演に臨んでいました。ただ、私は“コンサルタント”というより、営業のインストラクターの方が性に合っていました。前職の飛び込み営業(神奈川アスター、洋書販売)が活きていたのです。何れにしても、会社名に相応しい力を付けるためにも、自分自身を他の先生方に負けないようにする事が大事だと頑張っておりました。

吉岡社長とは、上司部下を超えた“良きパートナー”のような関係でした。社内で顔を合わせれば、金融機関対策や新規事業の話をよくしました。麻布の「よかろう」という店で飲みながら語り合ったことも、今でも鮮明に覚えています。

当時の日本経営センターは、コンサル会社としての響きは良いものの、会社規模が小さく、金融機関からの融資が受けにくいという悩みを抱えていました。そこで私と吉岡社長は、新規事業の条件として次の3つについて、合意しました。

1.棚卸資産を持ち、担保力になること
2.大企業が簡単に参入できない分野であること
3.継続性があり、息の長いビジネスであること

この3つが、新規事業の“姿”でした。 私が入社して1年ほど経った頃、吉岡社長が昔から可愛がっていた清野氏が、アメリカ製の自動噴霧装置付き芳香剤「オートフォギー」を持ち込んできました。当時は“マルチ商法”で売られていた商材で、私は疑問を持っていました。しかし、芳香剤そのものには可能性を感じたのです。

なぜなら、当時連れて行かれた銀座や新橋の高級クラブは、女性は美人揃いなのに、トイレが臭くて汚い店が多かったのです。ナフタリンの匂いで目が痛くなるような店も珍しくなかった。そこで私は考えました。 「夜になると酔客でいっぱいになる店に、毎月芳香剤を届けて交換するサービスなら喜ばれるだろう」 これが、トイレビジネスの原点でした。私も常々、単発の営業(売ったらそれきりの人間関係)には違和感を覚えていました。せっかく信頼を得てもそれきりになってしまうことが寂しくもあったのです。

吉岡社長と山戸の呼吸はピッタリ合っていました。すぐに特販事業部を立ち上げ、日本経済新聞に求人を出しました。集まった10名から、佐々木先生が4名を選抜。小松(後の東陽商会社長)、六本松、梶山、安達。この4名が最初の戦力です。

私は全国の家電販売店を応援する講師業で多忙でしたが、帰社すると若手を引き連れて渋谷・六本木・銀座の飲食店に飛び込み営業。夜遅くまで営業に専念しました。元々、神奈川アスターのレジスター販売や洋書の飛び込み販売など、新規営業には長い経験で慣れていましたので、訪問販売であれば商品の違いはあれど、さして問題ではないのです。飛び込んで、挨拶して、自分を信頼してもらう。この過程は全て通ずるものがあるのです。

若手には常にこう言っていました。

「トイレを綺麗に使うことが、店の一番のサービスですよ。4Kトイレ(臭い・汚い・怖い・暗い)を絶対に使わせないようにしよう。」

このようなスローガンを徹底しました。銀座・新橋で200本近く売れ始め、横浜にも広がり、従兄弟の隆夫にも売り方を教えました。私達は芳香剤の販売だけではなく、トイレという空間が人間にとって必要不可欠な生活部分であるという事実に気づき始めていました。

気づけば、トイレビジネスが動き出していたのです。

第3話:トイレビジネスの原点 日本経営センター時代 前編

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